JP MARTURANO
アーティスト・ステートメント
空と大地の間
私にとって登山とは、特定の具体的な山に登り、大地にいながら空の一番よく見える場所を追い求める行為である。山頂では、周りに空がいっぱい見えるのである。その時、私は山の塊ではなく、無限の空白を感じる。すなわち山の量感よりも、実体のない巨大な存在を感じるのである。《空の断片》作品のこれらは、ある意味で、手に入らないその広大な風景をフレーミングして自分のものにする行為だとも言える。山の写真を撮るのも、記憶を不滅にするためではある。しかし、石に山を彫る場合は、空間を再創造することになる。このように、石に山の形を彫るというよりも、その山の周りにある空を表現する作品になると考えてもいいであろう。
空と大地の間
私にとって登山とは、特定の具体的な山に登り、大地にいながら空の一番よく見える場所を追い求める行為である。山頂では、周りに空がいっぱい見えるのである。その時、私は山の塊ではなく、無限の空白を感じる。すなわち山の量感よりも、実体のない巨大な存在を感じるのである。《空の断片》作品のこれらは、ある意味で、手に入らないその広大な風景をフレーミングして自分のものにする行為だとも言える。山の写真を撮るのも、記憶を不滅にするためではある。しかし、石に山を彫る場合は、空間を再創造することになる。このように、石に山の形を彫るというよりも、その山の周りにある空を表現する作品になると考えてもいいであろう。
「捧げものと証拠」プロジェクト
このプロジエクトは、私自身が彫った彫刻作品を山に登って、奉納物とするものである。それは「無事に頂上まで登らせてくださ って感謝しております」という、登山者としての私の気持ちを表明する象徴物である。さらに拡大解釈をするとすれば、彫った作品を山に登って捧げ物をするということ自体、そして作品の制作にかかった時間もや、そのために学んだ技術も捧げものになる。制作した作品はある程度自分自身の延長であるとすれば、作品を山に残し、作品と山が一つのものになることによって、私自身も山になると考えても いいであろう。
一方、そのプロセスには、彫刻作品を山に奉納した際に頂上で拾った小石を、下山してから大理石に摸刻して彫刻にすることも含まれている。単の小石は美術作品になる。そして、私は奉納物としたその石彫は山になり、元の単の石の状態に戻ったのである。これで、美術制作と登山を両立させることによって、山に対する私の信仰心を表明するのがこのプロジェクトの意図で ある。
高山に登ったある時、しばらく日常の快適さから遮断されると、いつもとはまったく違う世界に踏み込んだ感じが湧いてきた。周 りに、川も木も鳥の声もない。歩く時に風の音と足音しか聞こえ ない。呼吸と心臓の揺れだけがはっきりと伝わってくる。しかし 突然、風がなくなって、山がひっそりとすることがある。その瞬間、心は落ち着きを取り戻し、世界は完全に静止する。すると周りにある雪、氷、石、雲など全部が完璧に調和するものとなるのである。空の深い青から小さい雪原にまで、全部がバランスを取っているのだ。巨岩も小さい小石もちょうどいい位置にある。私はその時、自然界の調和を実感したのだった。
このような場面に遭遇した私は一体何なのか。目に見えるものも見えないものも皆、連結され、その瞬間を待ってでもいたかのように、あらかじめ準備をしてくれていたような感じがする。登 山のために行った訓練や労働の意味が、ここでようやく体得できたのである。その時には私もその不思議な瞬間そのものになり、人間よりもっと巨大なものの一部になる。私は高い山にある石ころのようなち っぽけな存在になって、天地創造に参加するのである。
このプロジエクトは、私自身が彫った彫刻作品を山に登って、奉納物とするものである。それは「無事に頂上まで登らせてくださ って感謝しております」という、登山者としての私の気持ちを表明する象徴物である。さらに拡大解釈をするとすれば、彫った作品を山に登って捧げ物をするということ自体、そして作品の制作にかかった時間もや、そのために学んだ技術も捧げものになる。制作した作品はある程度自分自身の延長であるとすれば、作品を山に残し、作品と山が一つのものになることによって、私自身も山になると考えても いいであろう。
一方、そのプロセスには、彫刻作品を山に奉納した際に頂上で拾った小石を、下山してから大理石に摸刻して彫刻にすることも含まれている。単の小石は美術作品になる。そして、私は奉納物としたその石彫は山になり、元の単の石の状態に戻ったのである。これで、美術制作と登山を両立させることによって、山に対する私の信仰心を表明するのがこのプロジェクトの意図で ある。
高山に登ったある時、しばらく日常の快適さから遮断されると、いつもとはまったく違う世界に踏み込んだ感じが湧いてきた。周 りに、川も木も鳥の声もない。歩く時に風の音と足音しか聞こえ ない。呼吸と心臓の揺れだけがはっきりと伝わってくる。しかし 突然、風がなくなって、山がひっそりとすることがある。その瞬間、心は落ち着きを取り戻し、世界は完全に静止する。すると周りにある雪、氷、石、雲など全部が完璧に調和するものとなるのである。空の深い青から小さい雪原にまで、全部がバランスを取っているのだ。巨岩も小さい小石もちょうどいい位置にある。私はその時、自然界の調和を実感したのだった。
このような場面に遭遇した私は一体何なのか。目に見えるものも見えないものも皆、連結され、その瞬間を待ってでもいたかのように、あらかじめ準備をしてくれていたような感じがする。登 山のために行った訓練や労働の意味が、ここでようやく体得できたのである。その時には私もその不思議な瞬間そのものになり、人間よりもっと巨大なものの一部になる。私は高い山にある石ころのようなち っぽけな存在になって、天地創造に参加するのである。
Juan Pablo Marturano
ESCULTURA 彫刻 SCULPTURE